僕は12月21日の日劇にいた。
『レ・ミゼラブル』を見に来たのだ。
始まって5分と経たない内に嫌な予感がする。
果たしてその予感は当たった。
「なんだこれは」
7.20m×17.30mの大スクリーンいっぱいのクロースアップで
ひたすら歌っている顔が垂れ流されている。
画が歌の後ろを、台詞の後ろを、演技の後ろを、物語の後ろを
頭を垂れて足取り重くついていく。
冒頭、奴隷たちが鎖に繋いだ巨大な船を曳いているが
あれは「このようにして映画(船)は演劇(奴隷)に引き摺られて進みます」
という宣言だったのか。
大きく引き伸ばしたスターたちのバストショットスチールを人数分、
そしてレ・ミゼラブルのサントラが一枚。
その紙芝居でも遜色ない”映画”が出来そうな有様。
割ったり引いたり寄ったりが駆使されるのは
例えばラッセル・クロウの愚鈍な歌と顔が朗々と歌い上げるシーンが
「保てない」ようなときでありそこには何の意思も狙いもない。
サッカー中継で寄ったり引いたりしているアレと同じだ。
この監督は『帰らざる河』冒頭の長い長い2カットで
モンローに子供からギターが手渡され歌い終わるところまで
持続する画を5回くらい見たほうがよい。
やっぱり見なくてよい。ムダだから。
見世物だった映画をお芸術に高めるのだ
それにはお芸術であるお演劇をキラ星のようなスターを集めて
映画にすれば映画がお芸術になるであろう。
お立派なお知識人のお眼鏡にかなうお芸術と認められるだろう。
というお考えのもとに1908年フィルム・ダール社はつくられた。
そしてスターを集めた演劇をフィックスのカメラでフィルムにおさめただけの
演劇の劣化版お芸術映画がつくられた。
そしてグリフィスが登場した。
トム・フーパーはグリフィスは登場しなかったですという感性で撮っている。
カメラの位置、移動、カッティング、光、
それら監督の感性が捉えていく画の連続に
目を曝し共犯者として体験する喜び、驚き、
長い年月をかけて映画が獲得してきた
「映画」に「感性」に唾を吐きかけて撮られたナニカが垂れ流される
巨大なスクリーンに窒息死しそうだ。
僕は幾度も席を立ちかけては我慢しなんとか見終え
拍手と啜り泣きが響く日劇を後にした。
英国王のスピーチで感じたことは正しかった。
くたばれトム・フーパー。
